横浜山手のフェリス女学院一号館に見る「外観復元」の思想:解体の先にある「記憶の継承」——フェリス女学院1号館の鉄平石と、新旧設計者が紡いだもうひとつの再建モデル

前回の記事では、香川県立体育館や関東学院中学校旧本館などの事例を引きながら、なぜ地域や都市のシンボルであった名建築が「意味もなく」解体されてしまうのか、その背景と都市の記憶を守る難しさについて考えました。
建築の老朽化や耐震性の問題、あるいは現代の用途に合わなくなるという現実は、どの都市・学校・事業者も避けられない課題です。しかし、「解体して終わり」か「現状のまま保存するか」という二者択一だけが答えではありません。
今回はその「第3の道」として、横浜山手の丘の上に立つフェリス女学院(中学校・高等学校)の1号館の再建事例をご紹介します。
関東大震災の試練と「鉄平石」に込められた願い
フェリス女学院の旧1号館は、1923(大正12)年の関東大震災によって校舎が壊滅的な被害を受けた後、1929(昭和4)年に復興校舎として建設されました。
設計を手掛けたのは森山伊望(もりやま いぼう)氏です。 コンクリート造の近代的な校舎の外壁を覆っていたのは、表情豊かな「鉄平石(てっぺいせき)」の乱貼りでした。
当時、コンクリートの外壁を石で覆う手法には慎重な意見もありましたが、森山氏は美しさとともに「意味」を込めました。不揃いでありながら力強く組み合わされた鉄平石の一つひとつは、震災からの復興を支えてくれた多くの寄付者や後援者への感謝、そしてこの校舎で学ぶ生徒一人ひとりの誇りや美しい心を象徴していたのです。
半世紀以上にわたり、この鉄平石張りの校舎は「フェリスの顔」として、山手の丘の風景に深く溶け込んでいました。
「用途の変更」と解体、そして立ち上がる復元計画
しかし、70年以上の時を経て、建物の耐震性向上や最新の教育環境への適応という大きな課題に直面します。安全を確保し、現代の生徒たちが快適に学ぶ空間を確保するためには、旧1号館の解体と新たな校舎の建設が避けられない決断となりました。
ここでフェリス女学院が選んだのは、単に現代的なガラスとコンクリートの最新校舎に置き換えることではありませんでした。「用途を変え、性能を高めつつも、長年愛された旧1号館の外観と都市の記憶を復元する」という選択です。
新たに新1号館の設計を託されたのは、数多くのミッションスクールや歴史的建築の継承に深い見識を持つ一粒社ヴォーリズ建築事務所でした。
新旧設計者のバトン:1929年の素材と職人技の継承
再建にあたり、設計チームと職人たちは旧1号館の「面影」を徹底的に再現することにこだわりました。
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同じ産地の鉄平石を使用
新校舎の外壁に使用された鉄平石は、旧校舎建設時(1929年)と同じ長野県南佐久産のものが切り出されました。
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手貼りの職人技
生徒玄関周りなどの重要な外壁部分は、旧校舎と同様に職人による手貼りで丁寧に施工されました。驚くべきことに、かつての旧校舎増築工事などに携わったベテラン職人も現場に参加し、その技術と精神が技術者たちへ直接手渡されたといいます。
森山伊望氏が「復興と感謝の象徴」としてデザインした鉄平石の意匠は、一粒社ヴォーリズの手によって現代の耐震基準と高度な学校機能(地下・地上階のレイアウト刷新や環境性能)を組み込んだ新しい「新1号館」として見事に現代へ蘇りました。
「そのまま残す」だけが保存ではない
名建築の保存をめぐる議論では、しばしば「オリジナル(現物)をそのまま残すこと」だけが善とされがちです。しかし、実際に人間が使い、生活し、教育を行う場所である以上、安全面や機能面でのアップデートは不可避です。
フェリス女学院1号館の事例が私たちに教えてくれるのは、以下の重要な示唆です。
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記憶のコード(象徴)を見極める
建物のすべてをそのまま残せなくても、地域や人々の記憶に刻まれている「象徴的な要素(=1号館における鉄平石)」を抽出して継承すること。
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新旧の設計思想の対話
初代設計者の意図(森山氏の精神性)を読み解き、現代の設計者(一粒社ヴォーリズ)が用途の変更や技術的課題をクリアしながら再解釈して再現すること。
解体か保存かという極端な議論で「意味もなく解体」される名建築を減らすためには、こうした「記憶と外見のDNAを継承しながら、中身を未来に対応させる再建」という選択肢がもっと評価され、社会の共通認識となっていくべきではないでしょうか。
山手の丘を訪れた際は、ぜひ新1号館の外壁に目を向けてみてください。そこには、大正・昭和・平成・令和と、時代を超えて受け継がれてきた建築の記憶と温もりが、力強い鉄平石の表情となって今も生き続けています。


